新潟県阿賀野市(あがのし)分田

黒塀の家並み分田(ぶんだ)の地名は、分田七郎俊長(ぶんだしちろうとしなが)が寛治元年(1087年)の軍功により、分田城を賜ったことに由来し、人名が地名となったものといわれております。

その後、分田一族は平安時代から鎌倉時代にわたり郷土としており、貞和年中(1345~50)終に足利家に攻められ落城したともいわれております。

 

分田地域は、江戸時代、三国街道の宿場町「分田宿」として繁栄しており、幅5間(約9m)の家並みが4町26間(約483m)で短冊型に整然と続き、人馬の伝送や宿泊の世話をする問屋などの宿役人がおかれ業務にあたっていた地域でもあります。

また、良質な米や水を原料として酒蔵も3件あり、酒づくりの地域としても繁栄してまいりました。(現在は1件)

なお、明治11年(1877年)の明治天皇北陸巡幸の経路となっており、家並みの様子や通りのたたずまいに、近世期の宿場の面影をみることができます。

 

分田村の変遷

明治4年、廃藩置県により「分田村」

明治22年 町村制実施により「社田村(やしろた)」

明治23年 住民からの強い改定要望により「分田村」に改称

昭和30年 水原町に合併(昭和の合併)

※水原町は、明治元年・2年と当時の県庁所在地(当時は水原県)

平成16年 安田町・京ヶ瀬村・水原町・笹神村が合併し「阿賀野市」が誕生

 

参考文献:水原町教育委員会、分田村郷土史、分田小学校百年誌